昭和43年05月07日 夜の御理解



 昨日、一昨日いや昨日でしたか。昨日でした今度あの青年会の方で雑餉隈に信心の研修会に行かれた方の中の一人ですけれども。矢張りあの信心とはどう言う事かと信心とはどう言う事かと言う様な、その事に対して銘々が矢張り考えてるんですね。自分はどうとお話はしなかったけれども、自分成りに色々考えたんです。けど中々その説明がよう出てこない。どう言う風に言うたらいいだろうかと思うて思い続けておったら、昨日来てまあ昨日の朝お夢を頂いた。
 それは、あの丁度お夢の中に親先生が丁度、綺麗なこうお茶を売る様なお店で、壷の様な物が沢山飾ってある。それを何か如何にも楽しそうにこうやって眺めておられる所を頂いた。まあ夢の中で、はあ先生がああいうものがお好きなら、今度はああいうものをひとつ、買わせて頂いてからとこう、思うて目が覚めた。私がよっぽど欲しそうな風にして見よったんでしょうね、お夢ん中で。
 そしてそのそういうお夢を頂いてから思うた事はとにかく信心とは矢張りあの神様に喜んで頂く様な生き方をする事が信心だと。そんなら親先生に喜んで頂く様な生き方が信心だとこう、まあ思うたとこう言うのである。はあそげなこつでしたかと言うてそのまあ私聞かせて頂きながら、先月の久保山さん所の宅祭りの時の話を私がしたんです。丁度時間が有りましたから私久富さんとそれから妙子さんと3人で町へ散歩に出た。
 そして骨董屋にやってからまあ冷やかし半分で、知った仲ですから色々見せて貰いよった。したら、中々それがその私の、まあ言うなら欲しい物がいくらも有る訳です。それで私別にお金持って行っとる訳でもないですから、私は唯お茶をよばれながら御祈念さして貰よったら。あの頂く事がね男の花道というお芝居がある。あの「長谷川一夫」を演ずる所の「中村歌右衛門」ですね。
 あの歌右衛門が旅で盲くらになる所がある。その目を何とかという医者が治してやる。あの所の場面を頂くんです。それで私御理解でその事を頂かせて貰よったら、まあ言うなら、お前のいいと思うものを買っておけとこう言われるんです。必ずその目を開く目を開くものが。それは私がまあ治療してやる訳でしょう。目を開く者がおる。その目を開く者がおかげを頂くという意味の事を頂くんです。
 
 だから私はその話をさして頂いた。そしたらその方が言うんです。私はどうでもそのお夢の中でそのお知らせを頂いたからんなら、私はその時のお買い物を私がおかげ頂きましょうとこういう。それは有難いですね。私は心の中にははぁこの人が目を開いた。いわゆるどういう目を開いたかと言うとです、本当に信心と言う事はこう言う事だとこう、目を開いた訳です。青年会に行ってから色々考えた。
 色々考えた揚句に出て来たのが、親先生の喜びなさる様な生き方になる事だと言う事であった。というその目を開いた。その信心の喜びが、私がおかげ頂きましょうと言う事になった。私は金額を別に言うておった訳じゃないけれども、今日あの状袋に入れてから、その方が私におかげ頂かして下さいと言うて。
 丁度今日骨董屋さんが持って来る一時間前にお供えしてあった。開いたら一万五千円入っておった。その骨董の代金が一万五千円でしただからもし足らん時には又おかげ頂きますとこう事であったけれども、もう本当に神様が受けて下さると言う様な事を感じる。同時に矢張りこの目を開かせて頂く信心の本当な事が、心から分かると言う事はそんなに嬉しい事である。是は私はここに公表する事だとこう思うんですけれどもね。
 例えばまだ、そういう骨董類なんかに、例えば、愛着する心と言った様な物が、あると言う事はだから、私も一考を要する事ですけれども。けれども、神様の働きというものは、まあだから言わば、私としては、神様が顔を立てて下さった、という気がするけれどもね。その顔を立てた、その人はおかげを頂くに違いはない、ね。信心は是だと、心の中に分からして貰う。いわゆる肉眼をおいて心眼を開けというのは、そげな事じゃなかろうかと私は思うんですね。
 今日もう本当にまあ私としては掘り出しもんだと思う。本当に見事な古伊万里の皿類が来て居ります。結局私が欲して買った様であって私が欲したのじゃあなかった。と言う様な事が分からして貰う。肉眼をおいて心眼を開けとこう仰る。心の目を開かして貰うそこにはもう欲も徳も無い様な喜びが頂けると言う事も分かる。分かっておる様で喜びが伴わんなら、それは本当の目が開けておるんじゃないと私は思うね。
 それこそあの歌右衛門がですね、言わばあの医者がもう愈々最後の土壇場に、追い込まれておる所を助けに行くように危機を救う様に、何を置いても自分の誇りを捨ててしもうてその恩に報いた様に心の目を開かして貰うと言う事はね。もう本当に親先生にならもうもし親先生がその目を開いて下さるとするなら、親先生の為ならもうそれこそ火の中にでも飛び込もうと言う様なものすらが、出来て来るだろうと言う事を私は思う。
 ですから私共がなら目を開いて居る様であっても、その喜びもそう言う物を伴わないとするなら、それはまあだ本当の目を開いておる時とは言えない。なら今度のあちらに行かれた青年会のその事がここに色々な意味で、成程合楽は沢山の人が参りましたがです。言うなら沢山な時間と沢山のお金を費やしたわけですけれども、中に2人でも3人でもそうした目を開く人が出来たと言う事を、本当に私は広大なおかげであったと思いますね。
   どうぞ。